わたしたちの原点
想いに寄り添い、安心の暮らしへ
満寿園は養老院という名のセーフティーネットでした
社会福祉法人あしぎぬ福祉会は、現在の京丹後市を構成する旧6町が平成16年に合併した際に誕生しました。社会福祉法人としては、まだまだ若い法人ですが、私たちの原点は、「養老院」と呼ばれる保護施設です。今でも、地域のある程度の年齢以上の方は、満寿園ではなく、養老院と呼ばれる方もおられます。この養老院は、昭和4年に弥栄村伝染病隔離病舎として建設され、のちに国民健康保険直営診療所として利用されていた建物に、食堂、厨房、静養室等を増築して、1回目の東京オリンピックの5年前、昭和34年(1959年)に入居者定員50名、平均年齢74歳、職員数8名で開設されました。
セーフティーネットという言葉がない時代から
終戦後GHQの指導の下、日本政府は、敗戦処理として復員軍人や遺族の経済問題に対処するための生活保護法、続いて戦争孤児のため児童福祉法を制定、さらに、傷痍軍人などを救済するため身体障害者福祉法を施行するなど、「福祉三法」と呼ばれる様々な福祉施策を展開しました。そこから10数年が経過しての養老院の設置というのは、敗戦処理を主な目的とした日本の福祉が、終戦から14年、数年後にオリンピックを控えるところまで回復した中で、憲法25条の生存権の対象を広げる第一歩であったと思われます。そして、すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する、という日本の福祉の根幹を具現化する施策が、この当時に丹後の地で展開されたことに最大限の敬意をもって、ここに開園50周年記念誌より抜粋した当時の職員による回顧座談会の一部を記します。
手探りでの開園 開園当日の園長の言葉
「とにかく厚生省からの300万円で運営しなければならない。まだ手探りの状態でどういうふうになっていくかこれから分からないさかいに、まあ、よろしく頼む。」
開園当初の入居者は16名
「開設当初は、丹後出身の入所者以外は、京都市内の人がほとんどだった。」
風呂の水はバケツリレー、洗濯は川で
「裏山に水をくみ上げとったけど、水が出らへなんだだぁな。どむならん(どうしようもない)時は近所のうちにもらいに行った。職員総出でバケツリレーしたり、川の水を汲んで風呂を沸かしたり、洗濯は川でしとった。冬は冷たかったぁ。」
一番暖かったのは炊事場
「炊事場ども一日中薪を燃やしとったでなあ。一番ぬくかったで。くど(=かまど)から目を離されんいうようなことだったなぁ。」※厨房にガス器具が入ったのは、開園2年後の昭和40年でした。
通勤時、川に落ちる 38年豪雪
「まんだ冬むきども暗いですわね。歩いて園に行っとると、足がなんぼでも雪の中に入って、ありゃまあ、こりゃ川の上だぁ、と気づいて急いで這い上がって、そぉろそろ、この辺が道かいな、と手探りで・・・。何しろもう一面が雪野原でしたでねぇ。」
「お年寄りさんが寝るときの暖房は、最初、湯たんぽだったんです。建物の隅っこに長州風呂(=五右衛門風呂)が据えてありましてね、それにいっぱいお湯を沸かすんです。薪で。それから廊下にずらっと湯たんぽを並べて、順々にやかんから湯たんぽにお湯を入れてましたねぇ。今とは職員の仕事内容も全然ちごとり(違って)ました。」
受け継がれるもの
あれから半世紀以上の月日が流れ、今の満寿園に当時から残るものと言えば、敷地内の木々だけかもしれません。形あるものとしては、当時から残るものはごく僅かかもしれませんが、私たちは、先人たちが大変なご苦労の中で守ってこられたものを、その人の人生を最期までその人の人生として全うしていただけるよう、自立を促しつつ、その人の想いを受け入れ、安心して過ごせるあたたかみのある施設を地域の皆様と共に作り上げる、という言葉で表し、これからもこの京丹後、弥栄の地で守り、次代に伝えていきます。